32.それぞれの夜
Drから病理の結果を聞いた私と夫は、病室へ戻った。
「抗ガン剤、どうしようかなぁ」
「まぁ、よく考えて、ぴょんぴょんが好きなように決めるといいよ。治療でつらい思いするのはぴょんぴょんだから」
そんな話をして、私の夕食にも付き合った夫は、その日は面会時間いっぱいいてくれた。
面会時間が終わる1時間ほど前に病理結果を聞く順番が回ってきたお姉さんは、ずいぶん長い間戻って来なかった。
お姉さんは独身だし、ご両親はすでに亡くなっているので、一人で話を聞きに行ったんだけど、どうしちゃったんだろう?
面会時間が終わって少し経ってから病室に帰ってきたお姉さんの顔色と表情は、能面みたいだった。
「どこに行ってたの?」
「先生のとこで話を聞いてた」
「ずっと?」
「うん…」
「どうだった?」
「手術では取りきれなかったんだって。『長くは生きられないと思ってください』って言われちゃったぁ」
そう言うと、お姉さんは力なく苦笑した。
嘘でしょう?
お姉さんは余命告知を受けちゃったの?
何か勘違いしてるだけだよね?
何て言えばいい?
何も言わないほうがいいのかな…。
次の言葉を探している私の困惑を察したのか、お姉さんが提案した。
「喫煙所に行かない?」
「うん…」
夜の面会時間が終わった病院は静かだ。
薄暗い廊下を通って行った喫煙所にも、患者さんの姿はなかった。
私たちは煙草を吸いながら、ぽつりぽつりと語り合った。
私の病理結果を聞いたお姉さんは、「ぴょんぴょんは大丈夫だよ、きっとよくなるよ」と言ってくれた。
お姉さんの病理結果は、私には何ともコメントのしようがないものだった。
「長くは生きられないと思ってください」と言うDrへ、気丈にもお姉さんは「あと何ヶ月生きられますか?」と聞いたのだそうだ。
「あと6ヶ月って言われちゃったよ…」
Drがそう言うからには、何か根拠があるのだろう。
でも、お姉さんは痩せていないし、痛がってもいない。
お姉さんを見て、ガン患者だと思う人はいないだろう。
私が見ても、お姉さんは病人には見えなかった。
それなのにどうして?
何で?
私と同じ病名の人が余命告知を受けたというのはショックだった。
体ガンで死ぬ人は皆無じゃないって頭ではわかっていたことだけれど、今目の前にいる、私と話しているこの人が、6ヵ月後には死んじゃうの?
お姉さんは、必要な検査が終わり次第、抗ガン剤治療を始めることになったのだそうだ。
彼女は自分に言い聞かせるように、「人は、ガンでは死なない」と言った。
ガンが臓器にでき、大きくなって行くと、その臓器が100%の働きをしなくなり、臓器不全になって様々な生命維持活動が不完全になったり、心臓に負担がかかり過ぎたりして死ぬ。
だから、ガンがあってもそれが大きくならなければ、臓器の働きを邪魔しなければ、臓器は生命維持に必要な働きができるから、ガンがあっても人は死なない。
なるほど、そういうもんなのか〜。
「とりあえず、ガンをこれ以上大きくしないように、抗ガン剤治療してみる。薬が効けば、ガンが消えることだってあるかもしれない。他の治療法も考えてみる」と、お姉さんは言った。
人気のない喫煙室で、私たちはそれぞれの思いにふけった。
私は、自分の抗ガン剤治療をどうしようかと考えていた。
お姉さんはたぶん、自分はいつまで生きられるんだろうかと考えていたのだと思う。
消灯後の病室は静かだった。
ハムスターさんは数日前に集中治療室へ移されて行ったし、その後に入って来たペンギンさんは、とらえどころのない患者さんだったが、もの静かな人だった。
でも、私はやっぱり眠れなかった。考えることが多過ぎる!
抗ガン剤治療は楽ではないだろうな。
脱毛もあるだろうし…。
母は、数回の抗ガン剤治療で頭髪がすべてなくなっていたっけ。
それでも、一時の具合の悪さや髪の毛と引き換えに命が助かるなら、治療する価値はあるのだろうけど。
髪の毛はいずれまた生えるし、私はまだ健康だった時に「自分はいつかガンになるかもしれない」と考えて、使うか使わないかわからないかつらまで買ったんだ。
今回、抗ガン剤治療するなら、あれが役に立つだろう。
はっきりとした転移があるなら、即座に「やります」と答えられるんだけどなぁ。
検査の結果ではどこにも転移していないし、転移してる様子もない。それなのに抗ガン剤治療するのは無意味なんじゃないかな、身体だけ痛めることになりそう…。
でも、私が思っていたよりステージは進んでいる。目に見えない小さな転移はあるのかもしれない。
もしそうなら、そのガン細胞はこれから大きくなるんだ。
大きくなってから抗ガン剤治療するより、今のうちに叩いておいた方が治療回数もつらさも少なくて済みそう…。
抗ガン剤治療を断って、再発があったら、誰よりも自分が自分を深く責めるだろうと思った。その時、心の呵責に耐えられるだろうか?
反対に、自分の不安感や恐怖心に負けて、転移がないのに抗ガン剤治療したら、心は救われても身体的には大きな代償を払うことになるんだとも思った。
ぴょんぴょん、どっちにする?
情けないことに、全然決められなかった。
その夜、お姉さんが時々病室から出て行く気配がした。
翌日聞いたら、ナースから許可をもらって何回も喫煙所に行ったのだそうだ。
お姉さん、引導渡されちゃったんだもんな…。
「あなたは半年後に死にますよ」と言われて、ぐうぐう眠れる人はいないだろう。
私にとってもお姉さんにとっても、夜は長かった。
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