1.あるガン患者の死
夏の真夜中。
病室のベッドに横たわった母は、深呼吸のような息遣いをしていた。
心電図のモニターは、ピッ、ピッ、ピピッ、ピッと不規則な音を立て、私は「不整脈が起こっているのかなぁ」とぼんやり考えていた。
母は、口を開けてハァーッと深いため息のように息を吐くと、しばらく沈黙する。
そして、また、ハァーッと息を吐く。
病室に集まった家族の呼びかけには、もう答えない。
母は、その日の朝から意識が混濁し、午後からは意識不明になっていた。
母の呼吸する間隔はどんどん間遠くなっていき、「今度はいつ、息を吸うのだろうか」と、こちらが心配になるほど長い間、呼吸をしない。
そして、また、ハァーッと息を吸う。
口を開けて深く息を吸うような呼吸は下顎呼吸といい、それに意識不明の症状が加わると「危篤」とみなされる、と後で知った。
そんな状態がしばらく続いた後、いつまで経っても母が息を吸わなくなった。
「あれっ?」と思っているところへ、二人のナースが慌てた足取りでやって来た。
一人のナースが母の胸を押すと、平らだった心電図の線がその時だけ波形を描く。
気が付くと病室にはDrも来ていた。
彼が母の前にかがみこむと、全員が黙り込んだ。
そして。
「ご臨終です」
Drの声が沈黙を破った。
10年もの長い間、ガンを患っていた母は、こうして逝ってしまった。
一人の人間がガンを発病してから死を迎えるまでを身近で見た、初めての体験だった。
母が乳ガンにかかったのは、私が小学校高学年か、中学1年生の頃だったと思う。
健康自慢だった母は、胸にしこりを見つけても、それがガンだとは思いもせず、しばらく放っておいたのだそうだ。
父も、母の健康を過信していた。
というより、母に関心がなかったのかもしれない。
私から見ても両親の間には濃密な愛情があるとは思えず、離婚してもおかしくない雰囲気だった。
「痩せてはいないから、病気じゃない」「子供の学校が休みになってから」など、病院へ行くのを延ばし延ばしにしたあげく、母は検査を受けた。
初めに行った病院で再検査の指示を受け、別の病院を紹介されて、穿刺というのだろうか、胸に針を刺して怪しい部分の一部を取り出す検査をした。
その結果の出る日、母は父に「心細いから一緒に来て」と言えず、父には母の気持ちを思いやる度量がなかった。
診察室に単身で現れた母を見て、Drはため息をつき、「一人でいらしたのですか…。誰か付き添いのご家族は?」と聞いたという。
そして、母はたった一人でガン宣告を受けた。
あの時代にしては異例のことだった。
その後、母は左乳房を切除し、転移を防ぐため、腋の下のリンパ節も広範囲に渡って取り除く手術を受けた。
そんな大手術をしたのに、私は、母からも父からも「母の病気は乳ガンだった」ということしか聞かされていない。
手術した時の状態とか、ステージ、予後についてなど、両親は私に何も話さなかった。
たぶん両親は、昔の人の常で、「病気の治療はDrにすべておまかせ」だったのではないかと思う。
本当のことを知るのが恐ろしくて、聞けなかったのかもしれない。
病院との折衝役であるべき父は、昔から現実を直視できない人だった。
実際に起こっていることでも、見ないでおけば、それがなかったことになるとでもいうように、自分に不利なことや、いやなこととは徹底的に無関係を装った。
父は、事実を確認しないという方法で、母の病気からも逃げ出したのだ。
Drが母にステージなどの事実を告げたとは思えない。そういう時代ではなかったから。
両親に「いったいどうなってるの?」と聞くのははばかられた。
こうして、患者本人はもちろん、家族の誰もが本当のことを知らないまま、母の闘病はスタートした。
発病した当初の母の口癖は「ガンと戦って勝つ」。
本当にそう信じていたのか、自分を鼓舞するためだったのか、今となってはわからない。
「子供を残しては死ねない」とも思ったのだろう。
「ガンと戦って勝つ」を呪文のように唱え、朗らかに振る舞う母を、周囲の人間は「えらい、すごい」と褒めたたえた。
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