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2.ガン患者と暮らした日々

私は、両親と祖母、妹の五人家族の家庭に育った。
父の母である祖母は病弱で、私と妹とはかなり歳が離れていたため、母が入院すると、家事のかなりの部分は私の受け持ちとなった。

手術を受けた母は順調に回復し、退院した。
数年間は何事もなく、本人も周囲も「このまま全快するだろう」と思った。
しかし、再発してしまった。
周囲は再発の事実をはっきりとは母に告げなかったが、初めにガン宣告を受けているのだから、母も再発したことを知っていただろう。

母が放射線、抗ガン剤、転移した病巣の切除手術などで入退院を繰り返すようになると、私の毎日は学校、家事、母を見舞うための病院通いが日課になり、気ばかり焦り、すべてが中途半端になる日が続いた。
若さゆえの潔癖性からか、そんな自分が許せず、自己嫌悪を覚えた。
その上、身体が思うようにならず気分をいらだたせている母と、父との間でたびたび激しい確執が起こり、愚痴の聞き役までが回って来た。
さらに、両親の不仲が原因なのだろう、妹がグレかかり、私の家族はもうめちゃくちゃだった。

私は母の病気の状態が今どうなっているのかわからず、それは母も同じことのようだった。
父は、Drから何か聞いてるのかいないのか相変わらずはっきりせず、その結果、相手が何か知っているのではないかと、家族全員がお互いに疑心暗鬼になり、こそこそと顔色を伺ったり、カマをかけあう神経戦が繰り広げられた。

祖母は年のせいで体が弱り、これまた入退院を繰り返したあげく脳溢血で倒れ、痴呆症状が出てしまった。
介護施設に入れるしか方法がなかった。

同じ年代の友達は旅行に行ったり、デートをして、青春を謳歌しているのに、私だけ何でこんな目に遭うのだろうかと思い、私は病気になった母を恨み、役立たずの父を恨み、父を甘やかして育てた祖母を恨んだ。

家族全員が、自分以外のすべての家族を「自分はこんなに大変な思いをしているのに、あの人は何もしてくれない」と恨んでいたように思う。
そのくせ、「母の病気」という奇妙な連帯感で結ばれ、周囲の人々から寄せられる「ガン患者を持ったかわいそうな家族」という同情に酔っていた。


何年かかけ、母の病状は、不幸にも確実に進み、とうとう医学知識がない私でも、彼女が健康体に戻れる確率より、亡くなる可能性の方がはるかに高いのではないかと確信を持つほどに悪化した。

母は、周囲には相変わらず朗らかな顔を見せ、みんなの賞賛を浴びていたが、私は、母が持つ別の顔を目にして、彼女を憎み、軽蔑した。

突然、服のボタンを外し、「こんなにされた!」と、片方の乳房を切り取った胸の傷痕を私に見せたことがある。

抗ガン剤治療の後、私の前で髪を梳いた母が「こんなに抜けるのよ!」と、ごっそり毛が付いたブラシを私に向かって突き出したこともある。

10歳代の私にはショッキングな光景でしかなかったし、母が私に苦悩を転嫁し、憂さ晴らししているように感じもした。
「本当は不安なんでしょ。だったら、そう言えばいいじゃない。みんなの前ではカッコつけちゃって。どうして、私にだけそんなことをするの?」と聞きたかった。


私以外の周囲には気丈に振る舞っていた母の精神状態も、苦しい日々の連続にとうとう崩れていった。

病院から家に帰って来られても、「なんで私がこんな病気に」「お父さんは何もしてくれない」「痛いと言っているのにDrはちゃんと話を聞いてくれない。治してくれない」等、自分の病気の話と不満しか口にしなくなってしまい、「寝ている間はいやなことを忘れられるから」と、昼間から睡眠薬を飲み始めた。
病院から一日1回処方されている睡眠薬を昼夜飲むのだから、たちまち足りなくなってしまう。
母は私に、病院に勤めている私の友達から睡眠薬をもらってきてくれ、と言った。
犯罪である。
きっぱり断ったけれど、自分に突き付けられた現実から逃れるため、なりふりかまわなくなった母が情けなかった。

「習い事がしたかったのに、子供がいたからできなかった」「友達と遊びに行きたかったけど、おばあちゃんがいたから行けなかった」「胸にしこりがあったのは気づいていたけど、子供の学校があったので、夏休みになってからと思って、病院へ行くのが遅れた」「家族のことを考えて家から近い病院を選んだけど、遠くても有名な病院へ行けばよかった」。
母のロジックでは、すべて他人が悪いのだった。
私や妹がいたせいで、母はしたいことができず、命まで縮めることになるのか…。
生まれてきたのがなんだか申し訳ないような気がした。

さらに、少しでも興奮すると泣き叫ぶようになった母は、「私が一番不幸症候群」という悲しくも甘美な世界にどっぷりと浸かっていった。
それは、マイナーな思考がさらにマイナーな考えを生むという悪循環の始まりで、もう母にはプライドのかけらも感じられなかった。
かわいそうだとは思ったが、価値観や死生観などは、自分自身で構築していくしかあるまい。
私が口を出せることではなく、私の価値観を与えるわけにもいかなかった。
私には「人はそれぞれが違うから、私は私。人は人」というアイデンティティーが確立しているのに、母にはないのだ。
正直言って驚いた。
いい大人なのに、今まで考えていなかったのか…。

若い私でも母の気持ちを想像することはできたけれど、病気が悪くなってからの母の生き方は、あまりにもみっともなかった。
そして、そう感じる自分はなんと冷たい人間なのだろうかと恐ろしくなった。


母の言動は変わらず、とうとう家族では手に負えなくなり、父は母を内科へ連れて行った。
内科のDrは「精神科を受診するように」と言ったそうだ。
ノイローゼだったのだろう。
体面が気になり、病院のはしごも面倒臭くなった父は、結局そのまま母を家に連れて帰ってきた。
父には、事の重大さがまったくわかっていないのだった。

母は病気と、その結果やって来る死が怖いのだと私は確信していた。
どうやっても死から逃れられないのなら、せめて心静かにさせてあげたいとは思ったが、世間話みたいな形でさりげなく「みんな死ぬんだよね」「死んだらどうなると思う?」などという話ができるだろうか。
無理であった。

自分が死ぬのか助かるのかを「知りたい」「でも知るのが怖い」と逡巡する母の気持ちはありありと伺えたが、今までお互い病気のことに触れずにきた手前、改まって話し合うのは、「あなたはもう死にますよ」と、最後通牒を突き付けるのと同じことのような気がした。
だからと言って、「大丈夫。きっと良くなるよ」という言葉は白々しくて言えるような状態でもなく、母自身が事実を見る気になって、それを受け入れ、冷静になってくれるのをひたすら待つしかなかった。


母の苦難はさらに続いた。

手術の後遺症で左腕がリンパ浮腫になっていたのだが、初期手当が遅れたために浮腫が進行し、左腕の付け根から指先まで、常時パンパンに腫れ上がった。

リンパ浮腫になると、その部分がとてもだるくなるらしい。
母はよく、「腕がだるくてたまらない。自分の腕じゃないみたい。切り落としてしまいたい」と嘆いた。

母の浮腫は治らなかった。
パンパンになった指の股は裂け、そこから漿液のようなものがじくじくと滲み出し、さらに、その傷から細菌感染を起こし、頻繁に高熱が出た。

可哀想だった、と今になって思う。
しかし当時、浮腫を初めて見る私には、正直言って、恐ろしい光景でしかなかった。
私の顔を見るたびに苦痛を訴える母に優しい言葉はかけたけれど、心の底では、「毎日毎日、痛いって、そればっかり。もう勘弁してよ」とうんざりしていた。
私はリンパ浮腫に対して知識が何もなく、正確な情報を与えてくれる人もいず、家事の負担があり、学校へも行かなければならなかった。
そして、周囲からは「お母さん大変だから助けてあげてね」とプレッシャーをかけられ、心にゆとりなどまったくなかったのだ。


私が就職した年、父は母の主治医に呼ばれ、「奥さんは、もうあまり長くは生きられないだろう」と告げられた。
父は、いつもの常で聞かなかったことにし、質問もしなかったようだ。

その日、家に帰った私は、そわそわした様子の父から「お母さん、死んじゃうんだって」と、いきなり告げられた。
父は、自分に投げかけられた「妻の死」という重い問題をどう扱っていいかわからず、私に押し付けて楽になりたかったらしい。
私自身はずいぶん以前に、母はもうだめかもしれないと思っていたので、驚きはなかった。
「母も今までよく頑張ったな」というのが正直な気持ちで、母がいなくなる悲しみや、母親をなくした自分はこれからどうなるのだろうという不安はまったくなかった。
長年に渡る母の闘病中、知らず知らずのうちに気持ちの整理がついてしまっていたのかもしれない。

父に「あまり長くって、どのくらい?」と聞いた。
父の答えは「知らない。聞かなかった」だった。


その頃から、一時退院を許され家に戻ることができると、母はよく一人で外出した。
自分の死が近いことを予感し、「これが見納め」だと思ったのだろう。いろいろなところへ行っていたようだ。
しかし母にはもう体力がなく、出先で具合が悪くなることもしばしばあった。
そうなると、母を保護してくれた施設や、親切な人から「迎えに来てください」と電話が入る。
そのたびに私が迎えに行くこととなり、私の負担はますます増えた。

母を引き取った帰り道、「病院へ行って診てもらおう」と言うと、母は「大丈夫。家に帰る」と、頑として譲らない。
病院へ行ったら入院させられ、もう生きて出られないかもしれないと不安なのだろう。
でも、家でただ寝かせているだけでは、医療知識のないこちらが不安である。
「痛い、痛い。何とかならないかな」との訴えを聞くのも、正直言ってうんざりしていた。
具合が悪いのに病院へ行くことを嫌がり、私の負担を増やし、迷惑ばかりかける母が厭わしくなった。

そんな日々が続き、最後の方には、「治らない病気で、いずれ死を迎えるのだったら、治療せずにさっさと死んで欲しい。そして、私に青春を返して。同年代の他の子と同じように、楽しく過ごさせて」と願ったこともある。
とにかく、病人がいる家は大変で、病気になると治療も闘病も痛くて辛そうで、家族にも迷惑をかけることだけは身に染みてわかった。


母が発病した当時は、積極的にガン告知が行われる時代ではなかった。
インフォームドコンセントや安楽死については討議さえされていず、ホスピスなどという言葉も一般的ではなかった。

また、「病気になったら、とことん戦って頑張るのが美徳」とする風潮が強かったように思う。
医療機関側には、「できるだけ長く生かしておくのが医療」という姿勢が見え、鎮痛剤を多量に使うと死期が早まるという理由からか、たくさんの末期ガン患者がろくに痛みも取ってもらえず、たいした精神的ケアも受けられないまま、苦悩と苦痛に満ちた闘病を続けていた。


亡くなった人について批判するのはフェアではない。
その人は、もう反論も弁明もできないのだから。
しかし、あえて言う。
母の闘病は失敗だった。

成り行きとはいえ、はじめにガン宣告を受けてしまった以上、父はもちろん母も、そのことから目をそらすべきではなかったのだ。
希望を持つことは大切だけれども、事実や学説も考慮しておかなければならないだろう。
または、父と母が真実をざっくばらんに語り合える家庭を作っていたら…。
もしくは、「自分が病気になった時、どうして欲しいか」ということを事前に話し合っていてくれさえすれば…。

死について確固たる考えを持たず、自分の病気なのに人任せにし、真実から目を背けた母に、そのツケは確実に回ってきた。
母の最後の日々は散々なものだった。
母は自分も苦しみ、家族も苦しめた。
お互いのいやな面ばかり見続けることになって、家庭は崩壊した。
母の本意ではなかっただろうが、そうなってしまったのは事実である。
死を恐れ、生に執着した母の姿は、私にとって醜いものにさえ映った。

母が心静かに自分の死を受け入れ、納得して亡くなったとは、どうしても思えない。
かわいそうだがそれは、母自身に責任がある。
彼女は一人前の大人なのだ。


母の亡くなる一年ほど前、私は結婚し、家を出た。
そして、夏の夜中、母は亡くなった。 
家族や親戚の人は皆泣いていたけれど、私は涙も出なかった。
不謹慎だとは思ったが、ホッとしたのを覚えている。
「自分の人生に戻れる。好きなことができる」と思った。


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