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ホーム> メニュー> ぴょんぴょんのがんになっちゃった!顛末記> 7.入院まで

7.入院まで

入院が決まってからは、自分の病気について調べまくった。

その結果、私の病気には放射線があまり効果ないこと、特効のある抗ガン剤がないことがわかった。
本当なんだろうか? なんてこったい。

多くの資料には、子宮体ガンになる日本人は少なく、欧米で多い病気だと書かれてあった。
そして、日本人の体ガン患者は閉経後の人が多く、肉食が好きだったり、未婚、妊娠経験がない人、肥満、高血圧、糖尿病などの人に比較的多い病気だということも書かれていた。

病気になる要素で私にあてはまるのは、「妊娠経験がない」ということだけ。
ストレスでもガンになると聞いたことがあったので、「ろくでなしの父のせいで病気になったのだ」と考えようとも思ったが、やめた。
すでに病気になっている以上、原因を考えても、「病気がなかったこと」にはならない。
そんなことをくよくよと考えている時間があったら、他のことに使った方がよさそうだと思った。

また、体ガンは遠隔転移しやすい、転移するのは肺と首のリンパが多い、と書かれた資料も見た。
母は肺に転移があったので、肺ガンの症状はある程度わかっている。私には、そのような兆候はみられなかった。
首回りのリンパを触ったとたん、何かが指に触れた。
大きめのイクラの粒のようなぷよぷよしたものが皮膚の下にあった。
少し指を動かすともう1つ。げっ!

入院までに指示された検査は、膀胱鏡、注腸検査、直腸検査。
手術の時、どのくらいの時間で血が止まるかを調べる検査もあった。
子宮は膀胱や腸に近いので、転移の有無を調べる必要性は理解できるのだが、よりによって人に一番見せたくない部分ばかり検査されるので気が重かった。


なぎさ病院では、膀胱鏡は泌尿器科の扱いで、尿道から膀胱に管を入れて調べる。

検査前にアンケート用紙を渡された。
それには、「もし悪い病気だった場合、どうして欲しいですか」と書かれていて、「自分だけに教えて欲しい」「家族だけに伝えて欲しい」「自分と家族が一緒の時に伝えて欲しい」から選択するようになっていた。
私は「自分だけに伝えて欲しい」に丸を付け、「治らない場合はホスピスへ行くのが希望なので、すべて告知してください」と書き足した。

検査の部屋には、おなじみの内診台が置いてあってうんざりした。
またこれですか…。

泌尿器科のDrは、にこにこした愛想のいい人で、検査の前に「気分どうですか?」なんて話しかけてくれたけど、私はこれから行われることに一人でむかっ腹を立てていて、「気分は思いっきり悪いです」と答え、Drに困った顔をさせてしまった。

管を挿入する時は、表面麻酔薬のキシロカインを塗るのだが、それでも痛かった。
検査中は膀胱に水を入れたり出したりするらしく、膀胱が勝手に膨れたり萎んだりする不愉快な感覚があり、私の不機嫌はさらに加速した。

検査が終わった後、診察室に移って、Drから膀胱には何も問題がなかったことを告げられ、もしかしたら血尿が出るかもしれないと説明を受けた。
先生、もしかしたらじゃなく、本当に出ましたよ。翌日も出ました!

帰り際、私は泌尿器科のDrに言った。

「先生、首のところに何かがあるんです」

そのとたん、まずナースの顔から笑みが消え、にこにこしていたDrも真顔になった。
医療従事者は、こういう時のためにポーカーフェイスの練習をしておくように。
Drは私の首を触って、ため息をついた。

「ほんとにありますね。婦人科のDrに必ず言ってくださいね」


直腸検査は外科で受けた。

検査の前におなじみのアンケートがあり、私は再び「すべてを教えて欲しい」と書いた。

私はすでにガン宣告を受けているのに、受診する科が変わると、何でまた同じことを聞かれるのだろうか。
病院の方針なのか、診療科同士の連携がうまく取れていないのか定かではないが、もしかしたら、私の病気は実はすごく悪くて、本当のことを告げる前に心の準備をさせているのではないかなどとも考え、不安になった。

そこへナースがやって来て、検査時の姿勢を説明する紙と坐薬の下剤を渡してくれた。
病気のことで不安感を持ちはじめていたこと、混んでいてだいぶ待たされいらだっていたことに加え、検査時に坐薬付きでとんでもない姿勢をとらされることを知り、私はぶち切れた。

「坐薬はいやです」

「でも、下剤を使わないと検査できないんですよ」

「いやです!」

「入れてあげますから」

「帰ります!!」

押し問答のあげく、坐薬なしで検査ということになり、仏頂面で検査を受けた。
我ながら大人気ないとは思ったが、もう限界だった。
やけっぱっちの気分になって、ついでに触診で乳ガンの検査もしてもらい、さらについでに、首のぷよぷよしたものも診てもらった。
乳ガンについては異状なく、首のぷよぷよについても可動性があり柔らかいので、悪性のものではないだろうと告げられた。


注腸検査は、前の日から食事制限がある。
病院の指定で買わされたレトルトおかゆを主とした検査食を朝昼晩食べ、午後には下剤も飲む。
さらに検査当日の朝、坐薬の下剤を使って腸の中をきれいにして出かけた。
検査は、後ろがぱっくり開く検査着を着て行う。
アヤシイ服だった。

検査室の前で待っていると、中から検査技師らしい人が「大丈夫ですよ」「あと、ちょっとですから」「もうすぐ終わります」など、患者さんをしきりに励ます声が聞こえ、その合間に「あ〜」とか「う〜」という、くぐもった声がしていた。
私は注腸検査をしたことがなかった。
もしかしたら、とんでもなく辛い検査なのかもしれない。
びびった。

いよいよ私の番が来た。
腸の動きを止める薬を注射した後、検査台に横になると、バリウムを腸に注入された。
浣腸みたいなものだが、30分ほどかかる検査が終わるまで、「出し」てはいけないのだった。
「あっち向いて」「こっち向いて」と言われ、いろいろな姿勢でレントゲンらしきものを撮った。
人によっては出ちゃいそうになって苦しいらしいが、私の括約筋はどうも特注品らしく、楽勝だった。


病院の検査がほぼ終わると、親戚や友人への連絡や、仕事の調整が待っていた。

私の親戚は、両親の兄弟姉妹が主だったメンバーで、ほとんどが初老以上の人たちばかり。
私の母の病気とその闘病ぶりは、父母の兄弟姉妹にトラウマとなって残っており、これから先、彼らは私と母を重ね合わせて見るのだろうな、と思うと気が重かった。
私は私。母とは違うのに…。

そして、「病気になって手術するから、父の一周忌法要はできない」と告げると、思った通り大騒動になってしまった。

ある者は「ぴょんぴょんばっかりこんな目にあって」と泣き、ある者は「あんたのお母さんもかわいそうな死に方をしたのに」と嘆き、ある者は「お父さんのせいだ」と父の悪口を並べ、ある者は「他の病院でも診てもらえ」と言い、ある者は「抗ガン剤はやるな」と言い…。

「病気と戦って、勝て」と言われた時には、「検査や治療がどんなにキツイものか知らないのに、そんなことがよく言えるね」と反論したかった。

「病気になって、その上に借金返済は大変だろうけど、それもいつかは、あんたのためになるんだからね」と言われた時には、腹が立って二の句が継げなかった。

「人生いろいろあるから、しようがないよ」と言われた時には、怒りのあまり電話機を叩きつけたくなった。

「すべてを医者にませておけばいいんだ」と言われた時には、本当に怒って電話を切った。

人生経験の長い人たちだけに、彼らには彼らなりの死生観、人生観、病気に対する考えがあるのはわかるが、それを私に押し付けてくるので閉口した。
「自分が病気になったら、思ったようにすればいいじゃない。でも私に、あなたがしたいと思っている闘病の形を押し付けないでよ」と腹が立ち、さらに、そんな自分の度量の狭さにも腹を立てた。

父が多額の借金を残したことは親戚の人々も知っていたので、彼らは私の資金繰りを気にしているはずだった。
「ガン保険に入っているので、入院費は心配いらない」と告げると、「そんな保険に入っているから、本当にガンなんかになるんだ。ばかやろう!」と、どやしつけられた。

「心配」を「怒り」で表現することしかできない人もいる。
何やかんや言っても、私は親戚の人々から愛されているらしいと、いいように解釈したかったが、そう思うのはなかなか難しいことであった。

人と人は、それぞれ生い立ちやバックボーンが違うから、いくら近くにいても同一のものにはなれないと思う。
だからこそ、相手が何を考えているのか、どんな状況なのかを想像し、気を使って付き合って行くのではないか?
ちょっと想像を巡らせれば、私に対し、どんなに苛酷でむごく、理不尽なことを言っているのか、わかりそうなものだと思うのだが、想像力のある人は少なく、ひとこと余計な人は多かった。

いろいろな意見を「これが正しいのだから聞け」と言わんばかりに突き付けられ、でもそれは私が聞き入れられるものではなく、断る時や反論する時に相手のメンツを傷つけない方法を考えたりして、気疲れした。

多くの親戚が「頑張って。早く良くなってね」とも言った。
私は病気になる前から、自分の生活、仕事、父の不始末のことで精一杯頑張っていたと思う。
そして病気になり、私の頑張り度は許容量を大幅に超えた。
私はなぜ発狂しないのか、自分で自分が不思議なくらいだったのに、この上、何を頑張れと言うのだろう?
親戚からの言葉は、私にとって慰めや励ましではなく、脅迫のように感じられた。
もし私が死んだら、今まで私がやっていた父の後始末を肩代わりさせられるのだと恐れているのではないか、だから私に治って欲しいんだ、私が元気になったら、またいろいろとやらせるつもりなんだなどと、ひねくれたことまで考えた。

私が聞きたかったのは、「借金のことはまかせろ」とか、「入院中のことは心配するな。私(僕)がすべてやってあげるから」という言葉だったのだが、それは誰ひとり口にしなかった。
夫は「自分がやってやる」と思っていたかもしれない。でも、口に出してはっきりとは言ってくれなかった。


夫の両親へ何と言うかは夫に任せた。
私は、夫の両親にものすごくかわいがってもらっていたので、心配をかけるのかと思うと心が痛んだ。

私の親のことでは夫にも迷惑をかけており、私は夫の両親から疎まれてもしかたない存在だったのに、今まで彼らは、いつも私に優しくしてくれ、私が大変だろうと気を使ってくれ、恨みがましいことなど何一つ言わなかった。

そして私は、夫の両親から「孫を見せてくれ」と言われたことがない。
心の中では絶対に思っていたに違いないが、それを態度に表さない、できた人たちだった。
今までは、「いつかは子供ができるかもしれない。そうしたら、喜ばせてあげられる」などと思っていたが、それは不可能なことになってしまった。

夫は、もう若くない自分の両親にいきなりショックを与えることを避け、、私の病気について、本当のことを小出しに告げることにしたようだ。
電話をかけ、「ぴょんぴょんは子宮筋腫なのだが、このままにしておくとガンになるかもしれないので、子宮を取ることにした」というようなことを言っていた。


友人には、ガンで手術すること、へたな励ましの言葉をかけないこと、治療について一切口を出さないこと、病気についての経験や知識を私に言わないこと、病院へは私が望まない限りお見舞いに来て欲しくないことなどを告げた。
こちらは皆、了解してくれた。


仕事の客先には、「子宮の病気で手術するので、しばらく仕事できない」と告げた。
少し忙しい時期で、先方の担当者は困ったようだ。
病名を濁したため、相手は私の病気が子宮筋腫だと思ったらしい。
その人の知り合いに子宮筋腫の人がいて、投薬で手術するのを1年延ばすことができたので、私もそうして欲しいと頼まれた。
何も知らないとのんきなことが言えるんだなと思い、「私は待ったなしなので」と、なかば無理やり休みを取った。


このまま病気が悪化して、すぐに死ぬとは思えなかったけれど、手術中にショックを起こしたり、運悪く医療ミスに遭ったら、どうなるかわからない。
そうなる確率は低かったが、ゼロというわけでもなかった。
私には子供がいない。
もし死んでしまった場合、相続を巡って親戚の間でトラブルが起こるかもしれない。
いい加減な死に方をした父親の後始末の大変さは身に染みて知っている。
考えた末、弁護士さんに頼んで正式な遺言書を作成し、執行人になってもらった。

また、遺言書とは別に、私の死後すぐに開封してもらう封筒を作り、臓器提供や献体、解剖についての希望を述べた紙を入れた。
葬儀や納骨についても細かく指定し、いざと言う時は、喪主があまり考えなくても式が執り行われるようにした。
死んだ後、あまり人に迷惑をかけずに済むなと思い、ほっとしたのを覚えている。

私の周囲には、「死」について、漠然とした恐怖心を持っている人が多いようなので、私はアメリカで修業経験のあるプロによるエンバーミング(遺体衛生保全)の手配を頼んだ。
エンバーミングは、北米では大半の遺体に行われる措置で、「本当に笑って眠っているよう」な外見にしてもらえるはずだった。
みんなより先に死ぬのが私の運命なら、残った人々に「死ぬのは怖くない」と感じてもらえるような「いい感じの死体」になるのが、私に課せられたこの世での最後の使命になるのではないかと思った。
死後開封の封筒に「私の遺体にはエンバーミングをする」「棺桶の蓋はフルオープンで、葬儀に来てくれた人には頭のてんぺんから足の先まで見せること」と書き記した紙を入れた。

そして、棺桶には木刀か竹刀を入れるよう、夫に頼んだ。
夫は仰天したようだった。

「なんで?!」

「もしあの世というものがあって、そこへ行ったなら、父親を見つけ出し、心ゆくまでぶん殴るつもり」

私は本気でそう思っていた。
そして、それを考えると、死ぬのもなかなか楽しみであり、私は死んでからも忙しいのだった。


夫に預金や銀行の暗証番号のことを教え、食料品や雑貨のストックを多めに買い、退院後の季節のことを考えて衣替えをし、なかなか忙しい日々であった。

そして、毎日毎日食べまくった。
抗ガン剤治療を選択する場合のことを考えると、少し体重を増やしておいた方がいいだろう。
体重はなかなか増えなかったけれど、好きなものを制限なく食べられるので、その時だけはとっても幸せだった。


入院する日は刻々と近づきつつあった。
でも、私には「生きていたい」という切望感が湧かなかった。

検査を受け、入院の準備をし、手術に向けて体調まで整えているのに、「手術してもダメかもしれない。それなら、痛い思いをするだけ損だな。手術するの止めちゃおうかな」と思ったり、「病気が治っても、父親の後始末をする日々が待っているだけ。それならいっそ一切の治療を止めて、みんなから、ぴょんぴょんかわいそうと言われながら死んじゃう方がいいかな」と思ったり。
前向きに考えたり、後ろ向きに考えたり、私の思考は目まぐるしく変わった。

唯一、一貫してしてあったのは、支離滅裂なことや愚痴を言ったり、みっともないまねをしたくないという思いだけ。
けれど、そうできたかどうか、今でも自信はない。


私は以前、盲腸の手術を受けたことがある。
その時、脊髄に麻酔を打ったのだが、初めての手術で不安いっぱいだったこともあり、死んでしまうかと思うほど痛かった。
今度の手術でも脊髄麻酔を打つと聞き、いやでいやでたまらなくなり、そして、脊髄麻酔のこと、親戚のこと、父のことなどを考えたり、少しでも「ムカッ」としたり、「いやだな」と思うことがあると、身体中に蕁麻疹のような「みみず腫れ」が盛大に出るようになってしまった。

私の精神状態は、かなりヤバかったようだ。
自分でも、このままでは病気の治療をする前に、心の治療が必要になるかもしれないと思った。
入院・手術まで時間があり過ぎるから、いろいろなことを考えてしまうのだろう。

入院間近のある晩、ささいなことが発端で、夫と大喧嘩になった。

「ぴょんぴょん、病気だからって、その考えはちょっと自分勝手なんじゃないか?」

「なによ、それ。病気になった人にしかわからない気持ちもあるのよ!」

「はいはい。じゃ、もう何も言いません!」

「もしあなたが病気になった時、さっきと同じことが言えるならたいしたもんよ!」

夫にはかわいそうだったかもしれないが、かなりのガス抜きにはなった。
逆に、夫から、心臓が止まるくらい驚かされたこともあった。

「入院費って、いくらぐらいかかるんだろうねぇ」

「ホスピスへ、費用のことを相談しに行くんでしょ?」

「えっ…。私の病気、そんなに悪いの?!」

「なんで? ほら、病院にいて、相談に乗ってくれる人…。ホスピスっていうんじゃないの?」

「それはソーシャルワーカー! 慣れない横文字使って、びっくりさせないでよ!」

私は自分の病気について、「すべてを教えられていると信じたい」と思っていたのだが、実はDr.パンダと夫が私抜きでこっそり会って、「本当のこと」を話し合っているのではないかとの疑いを消し切れなかった。
たぶんそのようなことはなかったのだろうが、自分自身で否定し続けても、どうしても疑心暗鬼になってしまう。
そんな時、たとえ間違いでも「ホスピス」などと言われた日には…。


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