9.リンパ郭清攻防戦
私と同室だった患者さんたちは、手術を受けた翌々日の午前中に別の部屋に移って行き、大部屋は私一人になった。
私の手術はあさって。
なぎさ病院では普通、手術予定の患者さんは、手術の前日に入院してくる。
明日になれば、この部屋には、私と同じ日に手術を受ける人たちが入ってくるのだろう。
夕方、Dr.パンダに呼ばれた。
「あさっての手術のことだけど…」
「はい」
「本当に郭清はしなくていいんだね?」
「はい」
「もし郭清しなくて、万一悪い方に転んだ場合、文句言われても困るからさぁ」
その言葉にムカッとした。
さんざん「死んでもいいから郭清はいやだ」とこちらが言っているのだから、もし術後に転移したりして私が文句を言ったら、「ぴょんぴょんさんが自分で選んだことでしょう」と反論できるだろうに、と思った。
私のことを本当に考えてくれているのか、自己保身を図っているのか、Drの意図がいまいち掴めない。
「郭清しなかったことで何が起こっても、文句は一切言いません」と、一筆書けばいいのかなぁ…。
「転移はしていないと、いい方に期待する患者さんの心理はわかるけれど…」
「郭清をせず、万が一転移があった場合でも、すぐに死ぬわけではないでしょう。私のステージだったら、数カ月くらいは生きていられるでしょう?」
「がんの根治治療は、手術だよ」
「死ぬまでに、したいことをするくらいの時間的余裕はあるはずです。転移してたら、世界一周のお船に乗ってからホスピスへ行きます。浮腫になるかもしれないので、郭清はいやです!」
「郭清をするのとしないのとでは、オペ時間がすごく変わってくるんだよ。オペ室の予約のこともあるから、再確認したかったんだ。オペ室の予約は、今日までなんだよ」
「……。郭清は、いやです!」
ああでもない、こうでもないと、言い合うこと1時間以上。
その間、電話が入ったり、ナースに指示したりと、Drは忙しそうだった。
私の説得のためにDrの時間を奪っているのなら大変申し訳ないとは思ったけれど、私は何よりも、浮腫を恐れていた。
Drへの気兼ねから、私の一生を左右するような重大な決定を覆すことはできない。
郭清はいやだと頑張り続けた。
そして最後に、Dr.パンダは最終兵器を投入した。
「あのね、郭清して、取ったリンパ節を全部調べないと、転移があるかどうか、はっきりわからないんだよ」
「ええっ!!」
これは初耳だった。
入院前に行った私のリサーチは甘かったようだ。
転移しているかどうかがはっきりとわからないと、術後の生活設計に大きく差し障る。
Dr.パンダはなぜ、今の今になって、こんなことを言うのだろう。
郭清について、もっと簡単に私を説得できると考えていたのだろうか。
そういえば、子宮と卵巣だけを摘出するのに、手術日の4、5日も前から入院させて食事制限をするのもヘンだ。
なにはともあれ、私は「転移しているかどうかわからない状態」だけは避けたいと思った。
仕方がない…。
「じゃ、郭清してください」
「わかりました」
Dr.パンダは手術室に電話して、私のオペの時間延長を連絡し、そして私は、下肢リンパ浮腫の可能性を持つこととなった。
夜になって、若い男性のDrが来た。
私が初めて見る人だった。
「Dr.パンダとチームを組んでいる、Dr.コアラです」
「はい?」
「休暇を取っていたので、今までお会いする機会がありませんでした。Dr.パンダと一緒に、ぴょんぴょんさんの治療にあたります。よろしくお願いします」
「はぁ…。こちらこそ」
「郭清は、なさることにしたのですね?」
「はい…」
「それがいいです。もし私でも、郭清をお勧めします」
「そうですか…」
Dr.パンダがチームを組んで治療にあたっているというのは初耳ではあったが、Dr.コアラはきびきびして、なかなかいい感じの人だった。
消灯前、夫に電話して「郭清をすることになった」と伝えた。
Dr.パンダにだまされたとは思っていない。
でも、手術の直前まで、必要な情報を提供してもらえなかったということは、今も釈然としない思いがある。
あんなに短時間で、「郭清しない」から「郭清する」に変えてしまってよかったのだろうか。
手術日が目前だったので「考えさせてください」とは言えず、今までの「郭清しない」という持論を押し通すだけの根拠も見つけられなかった。
今日は部屋に他の患者さんがいないので、「さぁ、よく眠れるぞ」と思ったのだけれど、やっぱりダメだった。
夜9時に寝て、夜中の12時に起きてしまう。
かといって、昼寝をしているわけでもない。
そして盛大な「みみず腫れ」。
脊髄麻酔のことに加え、自分では意識していないが、病院の音や、集団生活がいやなのかもしれない。
あまり続くようだったら、個室に入れてもらった方がいいのかなと考えた。
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