4.発病への序曲
1999年8月初旬の暑い午後、私は机の前で呻吟していた。
仕事はなかなか進まないのに、納期が迫っていて、「今晩はもちろん、もしかしたら明日も、半徹夜かな」と思っていると電話が鳴った。
「はい」
「ぴょんぴょんさんのお宅ですか。こちらは警察です」
「はい」
「くろうさぎさんは、ぴょんぴょんさんのお父さんですか?」
「はい…」
父がまた何か、人に迷惑をかけたのだ。
どんな苦情を言われるのだろうかと身構えた私に、電話の相手は意外なことを告げた。
「お父さん、亡くなりました」
離婚した後、父は一人で暮らしていたと聞いている。
毎月のように高額の海外旅行に出掛け、趣味に莫大なお金をかけ、人と会えば景気のいい話ばかりして、たいそうな羽振りだったという。
父の周囲には、お金目当ての人々が「友人」と称して群がり、人を見る目がない父は、いいようにむしり取られたらしい。
そして、父は出先でひっそりと死んだ。
死んでから半月、誰にも発見されなかった。
真夏のことで遺体は腐乱し、警察は「見てもわからないから、遺体を見なくていい」と言った。
父を担当した検屍官からは、強烈で変てこりんな匂いがした。
死体の匂いなのだった。
父は、生きている時「うさん臭い奴」だったが、死んでからも臭かった。
父の家に入った私と妹は仰天した。
家の中は、泥棒が荒らしたようになっていたのだ。
父は整理整頓をまったくせず、下着はもちろん、シャツやズボンも一度で「着捨て」にし、カメラや水筒など、家にすでにあるものでも、必要な時に見当たらないと、金額に頓着せず、新しいのを買って使っていた。
同じものがいくつもいくつも、ごろごろあった。
2DKの部屋にケーブルテレビを2口契約し、電話もファクシミリも2台あった。
何を考えているのか、さっぱりわからなかった。
金庫から出てくるのは、残高ゼロの通帳や、解約した定期預金の証書ばかり。
現金はまったくなく、その上、仕事を辞めた後で買った家のローンがほとんど丸ごと残っていた。
バブルで手にした大金を、父はすっからかんに使い果たしていた。
お金が無くなった後も生活レベルを下げることができなかった父は、キャッシュカードの限度額上限ギリギリまで借入し、自分の生命保険を担保に借金をし、生活費と遊興費にあてていた。
各種の税金はちゃっかり滞納し、分割払いで買った数多くの品物があったため、請求書や督促状がバンバン届いた。
私と妹は、父の葬儀費用を折半で立て替えていたが、父の遺産からそのお金が戻ってくることは望めそうになかった。
私は常々、父のことを「ろくでなしのバカ」だと思っていたが、本当にその通りの人だった。
ちょうど、ノストラダムスの大予言では空から恐怖の大王か何かが降ってくる時期で、予言は当たらなかったけれど、父は、私と妹にものすごい衝撃と迷惑を残して死んだ。
私は父を「ひとりノストラダムス男」と命名した。
死者を悼む気持ちも、父として尊敬する気持ちにもなれなかった。
天井まで荷物が積み上がり、隅にゴミ溜まりができ、床一面にものが散乱し、父が出掛ける時に出したままだった食べ物に虫がわき、ハエがブンブン飛び交う、文字通り足の踏み場がない部屋を片付けながら、「ちゃんとしてない人間って、死ぬ時もちゃんとしてないんだな。死に方に生き方が出るんだ…」と思った。
父の家の中を整理するのに3カ月もかかった。
ある理由から相続放棄ができず、そして、借金返済のメドはなかなかつかなかった。
私は何も悪いことをしていないのに、一番年長の子供ということで頭を下げに行かなければならない場所があり、人がおり、父の本当の姿を知らない相手から、「お父さんはいい人だったのに」とか、「娘さんがもっと気を配って、見てあげればよかったのに。かわいそう…」と言われた。
言い返したいのをぐっとこらえる無念で、不本意で、不愉快な日々が続き、胃に穴があきそうだった。
葬儀には誰一人として顔を見せなかった父の「自称友人」たちは、「形見分けをしてくれ」と言ってきた。
父の虚構の姿しか知らない彼らは、父がお大尽だと思い込んでおり、ちょっとした品物が手に入れられるチャンスだと考えたようだ。
そのせこさにむかむかして、「すべて処分してしまいましたので」と丁寧にお断りしたら、返事として、不機嫌なうめき声が返ってきた。
類は友を呼ぶというけれど、「ろくでなしのバカ」だった父の友達は、やっぱりろくでもない人達だった。
親戚や友人は私の窮状を見て、いろいろなアドバイスをしてくれた。
でも、その助言は現実に即していないものや、私と妹が既に考え、選択不能と判断したものがほとんどだった。
人の意見を取り入れると、「あちらを立てればこちらが立たず」という状態も起こってくる。
その調整にも神経を使い、毎日毎日、ため息しか出なかった。
そして毎日毎日、「あなたはもうすぐ死にますよ」と言われたら、どんなに嬉しいことかと思った。
しかし、現実に背を向けて何になるだろう。そうやって大失敗した両親の轍は踏むまい。
私には、「人間が一生のうちに苦労する量は、皆、同じはずだ」という考えもあった。
少しずつ一生苦労する人と、一度にどーんと苦労して後は平穏という人とがいて、それによれば、私は「一度にどーん」の真っ最中であった。
母の病気、父の不始末の尻拭いと続けば、もうこれ以上の苦労はないだろうと思われた。
年貢をすべて納めるつもりで、私はかろうじて踏ん張った。
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